幼稚園ができるまで
幼稚園設立奮戦期~なぜベルギーに幼稚園をつくったか?~
「どうしてブラッセルに日本人幼稚園がないのかなぁ?」「日本語での幼児教育は大切なのになぁ」「誰もつくらないなら、やってみようか」「そうだよ、自分たちの体験からも絶対に必要だよ」「そうだね、世界一楽しい幼稚園をつくろうか」。
うっとうしいベルギーの気候のもと、一番楽しい友人との食事の席で子どもの教育について話し合うとき、必ずといっていいほど登場した話題でした。
わたしは2歳と1歳の子どもを連れてベルギーに赴任しました。
子どもたちを現地の幼稚園に入れ、片言のフランス語を話す子供に目を細めていました。
そして何年かがたったある日のこと、下の子供が、「お父さん、今日学校へ僕をaller chercherして(迎えに来て)くれる?」「のどがかわいたよ。jus d’orange(オレンジジュース)、飲んでもいい?」「ちょっと疲れたから、タクシーをprendreして(ひろって)よ」となにやらおかしい。
気が付けばいくつかの単語が、フランス語の直訳だったのです。
それどころか判らないと両手を広げ、質問に答えられずに詰まると舌打ちをし、言葉もしぐさもどう見ても日本人じゃないようでした。
現地の幼稚園に通っている友人の子どもたちも同じようなものでした。
つまりベルギー人になりきれないけれど、日本人でもない人種といったところでしょうか。
「いったいぜんたいこの子は何人なんだろう」と、はたと考え込んでしまいました。
「なぜこうなったのか?」―それは幼児教育をあまりに軽く考えていたからだと気づいたのは、そうとう時間がたってからのことでした。
さてこんな子育てを経験し、幼稚園を作るぞと決心したものの、ベルギーで日本人の幼稚園を作るにはどうしたらいいのか皆目わからず、いろいろな人に相談することとなりました。
日本の文部省へ問い合せてみると、「義務教育外の教育現場なので、海外での活動にはなにも援助できない」との回答。
それでも運営のため市場調査や銀行や会計士へ相談し、やる気一杯でかけずりまわったのですが、集めた情報から初めて出た結論は、「絶対に儲からない事業」。
しばし無言で長考の時期。
―――「儲けるために幼稚園を作るの?」と初心に返してくれたのは友人の一言でした。
「そうだよな、これからの子どものために働きたいんだ」と自問自答の毎日。
「いいかい、これは他の事業と違って赤字だから廃業しますと言えない事業なんだよ。一旦預かった子どもたちを最後まで面倒を見る義務があるんだよ。債務超過のため、活動停止処分などならないように運営しなければいけないよ」等の忠告。
いろいろな話を聞き、そしていろいろな難関があり、時間だけが空しく過ぎていきました。
しかし、相談にのってくれた人たちはみな幼稚園の必要性と設立への協力を申し出てくれました。
そんなある日、教育関係で働く友人から「あなたa.s.b.l.って知ってる?」と言われました。
駐在員が日常耳にしないこの団体は、”Association Sans But Lucratif″の略称で、通常「非営利団体」と日本語に訳されるものです。
この団体の活動目的は利益を追求するものでなく、文化活動を行うことが目的で、わたしの考えと非営利団体の活動の趣旨が一致していました。
さっそくベルギー人やベルギーに住む日本人の友人に相談すると、快く設立の協力を申し出てくれたうえ、団体の理事まで引き受けてくれました。
乏しいフランス語力をふりしぼりながら研究を続け、理事の皆さんとの協力でなんとか設立の手続きを始めることができました。
また日本からある幼稚園の園長先生がベルギーの幼児教育を視察に来るという情報を得、早速アプローチ。
そこで自分の構想や計画と希望を話したところ、理解を示していただき、前向きに検討してもらえるとの約束をもらい、あとは全力で突っ走るぞと本格的に身の回りを整理しはじめました。
その後、日本に戻り、何カ所かの幼稚園や幼児学習塾を訪問し、協力の約束も取り付けました。
現場もみっちり体験し、ソフト面での準備はほぼ完了に近づいたのです。
非営利団体の定款の原稿も出来上がり、弁護士に内容を確認してもらうようにお願いし、さて、肝心の場所探し。
70件以上の物件を検討し、ようやくベストに近い条件を見つけ、契約にたどりつきそうな状態の時に一悶着。
オーナーから「非営利団体の幼稚園を作るとなると、地元の理解も必要だから、場所が決まればすぐにそのコミューン(区役所)を訪問し、理解を求めてから契約だ」と言われたのです。
粘り強く助役さんとの面会を求め足を運んだところ、「その地区は居住地区でいかなる活動もできません。許可が必要なら目的変更の手続きを取りなさい。ここにすぐ担当者を呼び出します。説明を聞いてから手続きを始めてください。だいたい6ヶ月ぐらいで許可を下せると思いますが、地域住民が反対すれば許可を出せません。それに小さい子どもを預かるなら医者か保健婦を常駐させないといけないと思います。その方の担当者を今呼ぶから説明を聞きなさい。それから消防署、警察そして地域住民代表者、それから・……。まぁ早くて1年後のスタートを考えてはどうですか」とまるで厄介者扱い。
そして、都市計画課の担当者が地図を片手に現れ、居住地域でできる活動の数々を説明。
手続き用の書類ざっと30枚あまりを机の上にどさっと置いて部屋を出ると、入れ替わって今度は保育所などの担当者が現れ、なにやら早口のフランス語でまくしたてられました。
察するところ、幼稚園年齢の子どもを預かるなら医者などは必要ないことが判り、助役さんに「やはり看護婦などは不要ですね」と確認すると、次の担当者はフラマン語……。
「たくさんの日本人がここで生活しています。その方たちも幼稚園の開園には肯定的です」と伝えると、「手続きが必要です。もっと時間をかけてじっくり考えてください」と言葉を残し面会は決裂に終わりました。
しょんぼりと冷たい雨の中コミューンを後にし、オーナーに契約できなかった旨を伝えました。
そして気持ちを入れ替え、今度は目標を非居住地区の物件に集中し、大きなビルのフロア-を見つけたのはすでに3月も下旬。
オーナーに活動の内容を説明し、コミューンの理解を得たいと話すとなんと、「コミューンに話などする必要もない。契約を4月1日までに交わしたい」と即決を促します。
しかし、前回の経験から、きちんとこちらの趣旨を伝えたかったので、大至急コネを使いコミューンの責任者を訪問する運びとなりました。
「とにかく全力で理解を得よう」そのときは、それしか頭にありませんでした。
訪問したコミューンは、前回のコミューンとは打って変わっての対応でした。
「貴方が創めようとしていることは非常に有意義なことです。このコミューンにもたくさん日本の方が生活しています。また東洋の文化に興味を持っている方も多くいます。どこでも好きなところで日本人のための幼稚園を作ってください」。
3月下旬、心軽やかに契約する意志をオーナーに連絡し、契約を依頼しました。
ところがそれまではやく契約をと、矢のような催促をしていたオーナーが一転、「ビルの管理組合が難色を示しそうだ」となかなか契約書を送ってきません。
「難色を示しているなら組合に説明に行きます」と言うと、さっさと契約の撤回を言い渡してきたのが4月1日。最高のpoisson d’avril(エプリルフール)でした。
管理組合が実際、契約を反対しているのでなく、難色を示すかもしれないとして契約を撤回したのです。
改めてこの国は「組合」と名のつくものの実力を実感させられました。
再三のどんでん返しに定款の確認も進まず、肝心の場所も見つからず・・・と焦りの毎日でした。
「何という国だ!」と怒鳴り出しそうになるのを何度も何度も押さえつつ、執念深く場所探しのため街を歩き回る毎日でした。
「貴方が幼稚園を作ろうとしてご苦労されているのはわかります。だけど、困難はdifficileであってimpossibleではないのです。まだまだ可能性があります。いいですか、あなたは日本人駐在員の子どもたちのために幼稚園を作るのですよ。Courage(がんばって)! 」そんな頃、日系企業などのお世話をしているベルギー政府機関の責任者からこういって励まされました。
「そうだ、まだ不可能と決まったわけじゃないんだ」落ち込んだ体に新しい力が漲るのを感じ、またブラッセルの街を歩き始めました。
たくさんの人たちに勇気付けられ、気合を入れなおし、場所も決まっていない幼稚園開園の予告広告を出し、場所探しはつづきました。
ようやく現在の場所を見つけた頃には、問合せが40件を越えていました。
建物が商業目的などでも使用される認可を得ていることを確認し、さぁ物件を見にいくぞ!と意気揚々と車に乗り込むと、10年ほどしか走っていない知人から譲り受けた中古車は、轟音をたててエンジントラブル(結局廃車となりました)。よくよく困難に好かれたものです。
車を乗り捨て、とりあえず電車で現地を訪問し、またもめげずにコミューンの都市課担当者に会いました。
すると、「1975年以来この地域は居住地域とされています。従って医者、弁護士などの特定の活動を除いて、どのような活動もできません」との冷たい回答……。
またもどん底に突き落とされ、オーナーに連絡すると、今度はオーナーがびっくり。
長年商業活動などを目的として登録しており、住居用建物とは異なる税率で税金を納めていたとのこと。
そしてオーナーが都市課の担当者に直接電話で話すと、「それは多分1975年以前の登録でしょう。いちいち建物の詳細まで把握してませんから」。
さっきの発言は一体なんだったんだ?!とぶつぶついいながらも契約書のサインにこぎ着けました。
ここまで書いたものをみると何もかも一人で準備したようですが、ここに至るまでには本当にたくさん方の支援がありました。
帰国のために不要になった家具をトラック一杯寄贈してくださった方。
幼児向けの絵本をたくさん寄贈してくださった方々。
遊具や文具、教材などを寄贈してくださった方々。
それらの寄贈品を預かってくださった方。
そして内装を文字通り手弁当で手伝ってくださった方々。
広告やポスターの作成を手伝ってくださった方々。
人間不信に陥りそうだった時期だけに、協力してくださった方々のお気持ちがありがたく感じました。
ようやく準備が整った99年5月、晴れて開園の運びとなりました。
山あり谷ありの困難を乗り越え、あぁ、やっとここまでたどり着いたんだ……という充実感を吹き飛ばすかのように、入園式に来たのは、たった1人の園児でした。
実際たった1人の園児を前に、現実を実感せざるを得ませんでした。
「そうだよね、たった1人でもりっぱな幼稚園を一緒に作っていくんだよね」と自分自身に言い聞かせ、開園したのです。
1人の園児相手に、毎日が過ぎました。
朝、キラキラした目で登園する園児からは、その日1日の活動を期待している気持ちが手に取るようにわかりました。
気合を満杯にして、時にはわたし自身が園児の友だち、時にはガキ大将を演じ、子供の良いところを引き出そうと懸命に観察し研究する毎日でした。
もちろん、園児一人では、幼稚園としての活動には限界があり、毎日のカリキュラムの設定も難しい状態でした。
園児が帰った後の教室に、20人分の椅子がむなしく積み重ねられるのを見るにつけ、ぐったりと気持ちが落ち込みました。
「どうすればいいのだろうか?」と毎日打開策を考えあぐね、初夏の早い日差しにはっと気付いてベッドにもぐり込むことも1度や2度ではありませんでした。
ここ数十年、増えても決して減らなかった体重があっという間に減り、昔のズボンがはけるようになった時ばかりは、実は満更でもないな・・・と少々いい気分でしたが。
ちょうどこの頃、マスコミに園のことを取り上げてもらったことは、そんな毎日の生活に励みになりました。
「まずここに子供が来てもらうことだ」「夏期保育(スタージュ)を開いて、できるだけたくさんの子供に来てもらうチャンスを作ってみれば?」応援してくれる友人たちから大きなアイデアをもらい、夏期保育の準備が始まりました。
しかしわたし一人だけではとても準備しきれません。ポスター作り、広告原稿チェック、カリキュラムのアイデアなど、またまたたくさんの人たちの応援をいただいたおかげで、予想を上回る反響で申し込みが殺到しました。
やっと集団活動ができる人数が揃ったのです。
工作、お絵描き、小遠足、お菓子作りにお料理作り・・・、本当に幼稚園らしいカリキュラムで夏期保育が実現しました。
今までになかった内容を今までに経験できなかった人数で楽しむ。
翌日の準備が深夜に及ぶこともたびたびでしたが、みんなの目を思い浮かべるとこんなに満ち足りた毎日はありません。
そして夏期保育が終る頃には、1人、また1人と入園を申し込んでいただけるようになりました。
「ようちえんのおともだちだよ」と言ってお迎えのお母さんにお友だちを紹介している園児に、「ホントに良かったね」と思わず声をかけていました。
嬉しかったですね。
そして2学期。私たちの子供は7人になりました。